論理の限界を意識して議論しよう

こんばんは。黒田正一です。

 

以前書いた記事で、詭弁についての本を紹介しました。

 

また改めて詭弁について勉強してみようと思い、同じ筆者の香西秀信氏の著書を1冊読みました。

 勉強してみようと思ったのはまあそのとおりなんですが、読もうと思った最も大きい動機は香西氏の文章の面白さなんですけどね。極端な話、詭弁というジャンルに興味がなかったとしても単純に読み物として面白いのでおすすめです。

 

ちなみになぜ私がこんなに詭弁や議論術の勉強をするのかといえば、以下の理由があります。

 

自分と違う意見を聞いた時、それが納得できる論の組み立てで作られているときは反発は感じずむしろ「ああそういう考え方があるのか」と心地よかったりもします。そして逆に、違う意見でしかも納得できず、かつ論の粗が明確なときは「ああここが間違っているな」とわかるので、ストレスも実はたまりません。

 

問題なのは、感覚ではなんとなく腑に落ちないけどどこが間違っているのかわからない論の場合。これは詭弁や議論術のテクニックを学ばないと反論もできないし、自分の中にモヤモヤが残ってしまいます。ついでに加えるならば私は天邪鬼ぎみで、ネット上の議論のメインの意見と違う意見を持つことが多いのでこれは割りと死活問題でもあったりします(笑)

 

そういった事態を少しでも減らすために、詭弁を学んでいる次第です。

 

本の紹介

今回紹介するのは『論より詭弁』。以前紹介した『レトリックと詭弁』は詭弁テクニックの各論解説でしたが、『論より詭弁』は詭弁の本質と論理の限界、ひいては言語の限界にまで深く迫っています。

論より詭弁?反論理的思考のすすめ? (光文社新書)

論より詭弁?反論理的思考のすすめ? (光文社新書)

 

 「第一章 言葉で何かを表現することは詭弁である」の紹介

まず第一章のタイトルが凄いです。

言い換えると、こういうことです。

詭弁というものを、「事実を自分の都合のいいように相手につたえること」と仮にするならば、人間は他者に何かを伝える際自分の意思を完全に排除して客観的に伝えることは言語の性質上不可能だということです。

 

本文中の例で説明しましょう。

a  B君の論文は、独創的だが、論証に難点がある。

b  B君の論文は、論証に難点があるが、独創的だ。

どちらの評価も、「事実」の伝達としては、与えている情報はまったく同じである。しかし、聞き手に与える印象はまるで異なる。

独創的であるという特徴と、論証に難点があるという特徴は、事実としては因果関係もなければ時間的前後関係もありません。しかし言語は一本の線のようにかならず記述する順番を決めなければいけない。そこにはどうしたって意図が入るし、仮に話者が「順序に意図はない」と言ったとしても、受け手の印象としては何らかの意図を感じてしまうのです。

 

これは順序の話ですが、ある状況を描写するときにどんな名詞、形容詞を選ぶかでも意図が入ります。有名な話でいうと「コップには水が半分しか入っていない」「コップには水が半分も入っている」という解釈の違いが生じたりもします。

 

とここまで言ってきましたが、筆者は「言語はそれでいいのだ」と言います。

 

だが、言語表現一般において、できるだけ自分の思想、価値観、嗜好等による断定を配した中立的な「名づけ」こそが正しいと考えるのであれば、それは人間の言葉の使い方として根本的に誤っている。それでは、自分が言葉をもっている甲斐がない。

 

そもそも人が言葉を発する時点で、何も言わない場合と比較してなんらかの意図があるわけで、意図の無い言葉は言い換えれば何も伝えるつもりがない言葉なんですよね。

「ここにコップがあるよ」という一見客観的事実を伝えている言葉にしても、

「ここにコップがあるよ(だから水が飲みたければこれを使ってね)」とか

「ここにコップがあるよ(だから倒さないように気をつけてね)」とか

何らかの理由があって言ってるわけですからね。

 

「第四章 人と論は別ではない」の紹介

もう一つ面白かった章を紹介しましょう。

おそらく筆者がメインと考えているトピックが書かれている第四章です。

 

通常詭弁に分類されている「人を論じる」虚偽について紹介されるとともに、それって詭弁なの?と疑問が投げかけられています。

人を論じる虚偽とは、本文を引用すると

これは、例えばAという人物の議論に対して、その議論の妥当性を問うのではなく、Aの人物を否定することでその議論を葬り去ろうとする詭弁である

例えば国会で法案の審議をしているときに、法案とは関係ない部分で大臣や議員の個人攻撃をしようとする状況がこれにあてはまります。

 

これを踏まえて、筆者はやや極端な例を挙げて、これは詭弁ではなく正当なものだと主張します。下記は論理に基づいた考え方なのですが、筆者はこれを非現実的なことと言います。

私が道路を咥え煙草で歩いていると、向こうから同じように咥え煙草の男が歩いて来て、私に向かって「咥え煙草で道を歩いてはいけません」と言った。このとき、私が「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。

「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」というのは論点のすり替えともいえますが、筆者はそのすり替えは正当だといいます。

私は、相手もまた咥え煙草で歩いていることをもって、自分の咥え煙草を弁護しようとしているのではない。自分は平然と「悪」を犯しながら、他人の「悪」は厳しく糾弾するというその不公平さを攻撃しているのである。それは「咥え煙草で道を歩いてはいけない」という発話の是非よりも、私にとっては優先すべき論点である。その論点に移行して、なぜいけないのか。

確かに、論点を決める権利は最初に問題提起した側だけにあるわけではないですからね。 

 

おわりに

 他の章も、議論の限界と可能性について新しい視点をもたらしてくれる内容になっています。

・第二章 正しい根拠が多すぎてはいけない

・第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと

・第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない

 

ツイッターや2chでは日々議論が戦わされおり、それはときに混乱していたりときにワンサイドゲームになっていたりします。そんな中、この本の視点で見ると、混乱している原因がわかったり、勝っているように見える側にも粗が見えたりして、一層面白くなります。そして、今まで腑に落ちなかった部分が解消されることもあるかもしれません。